荻窪ベルベットサンにて開催されている
スーパーフラット読書会『杉江松恋の読んでから来い!』の紹介ブログです。
各回の参加者の皆様のレジュメを紹介します。

2012/11/4 2冊目『マルタの鷹』改訳決定版    ダシール ハメット (著), 小鷹 信光 (翻訳)

マルタの鷹〔改訳決定版〕
ダシール ハメット (著), 小鷹 信光 (翻訳) (ハヤカワ・ミステリ文庫)  

マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

杉江松恋さん

マルタの鷹』にはさまざまな読み方があると思いますが、ここではサム・スペード(S)とブリジット・オショーネシー(B)の関係を軸にプロットを分解してみたいと思います。

起(1~2)

S・Bの外見描写、Bはミス・ワンダリーという偽名を使って登場する。Bの『嘘つき』『油断のならない女』という性格規定はここで行われる(1)→アーチャーとサーズビーの二重殺人。Sは後に引けない事態の中に入り込む。(2)

承(3~10)

アイヴァ、エフィという2人のサブ・ヒロインの登場。アイヴァは愚かに過ぎ、エフィは純粋に過ぎる。類型的なキャラクターを出すことにより、自然とBとの対比が際立つ(3)→頃ネットのB。初めての媚態(『悪い女』だと言って泣く)に対し、Sは必要以上に辛く当たる(ここで『金を奪う』のはのちのちにも効いてくる誘導)。第1の「取引」。※コロネットの宿泊期間についての伏線1。(4)Bにとっての第一の仮想敵であるカイロとSが対決する。第2の取引。(5)→SはBを再訪。「金の他になにをくれたか」という問いが重要。Sは最後までBに対し「どこまで真実を明かしているのか」という問いを発し続けている。(6)→Sの部屋へ。ここでも「おれを信じてくれなくてもいい。信じさせてくれれば」という言明が。※フリットクラフトの謎めいた挿話。(7)→カイロとBの茶番劇。警官の前でSがBを庇ってしまった、という点が重要。ますます後に引けなくなるS。(8)→カイロの退場。黒い鳥の紹介。「嘘つきであることを否定しようとしない」BによるSの誘惑。Sは「黄色く燃えた」目でBを抱く(9)→B退場。※コロネットの伏線2。1と2を足すと矛盾がすでに生じている。※BはSが部屋に戻ってくるたびに拳銃を手にしている。(10)

転(11~16)

ガットマン登場。Bの「語らなかったこと(消極的な嘘)」について語る役割。(11)→Bの失踪(読者に対しては『ヒロインの危機』の装い)。※「コール」紙。(12)→マルタの鷹の由来(消極的な嘘のさらなる補強)。第3の「取引」。(13)→パロマ号の炎上(『コール』紙の伏線回収)(14)→警官・検事とSの対決。Sは警察のうすのろぶりに憤慨しているように見せかけているが、実は事態を収拾するためのヒントを口にしている。これまでとは違う第4の取引の暗示。(15)→依然としてBは不在。エフィの見方は読者の視線を補強するもの。Bからの電話とジャコモの死。(16)

結(17~20)

誤った情報によるSの誘導とBの再登場。関係者が勢ぞろいしての「取引」開始。(17)→第4の「取引」。ウィルマー(稚児)を生贄に。(18)→「取引」の遂行を巡る駆け引きの開始。ガットマンが再びBの「語られなかったこと」を語る役に(今回のそれは、Bを陥れる意味が)。千ドル札のトリック(Bを陥れる罠が始まっている)。マルタの鷹を巡る欺瞞の発覚。「取引」の崩壊(19)→SによるBの欺瞞の告発。「きみに、こけにされたくなう」。エフィはSの態度を拒絶する。(20)

 

このように見ると『マルタの鷹』はサム・スペードがブリジットに対して嘘の告白をする機会を伺いつつ、彼女が巻き込まれた事態を回収するための「取引」の方策を探す小説であったことがわかります。プロットには求心性があり緊密という印象を受けました(杉江)。

 

★砂手紙さん

ハメット『マルタの鷹』エフィ・ペリン行動表(タイムテーブル)

1日目(水曜日)

(午後)ワンダリー(ブリジット・オショーネシー)を迎える

2日目(木曜日)

02:30ごろ スペードより、アーチャーの死をアイヴァ(アーチャーの妻)に伝えるよう指令される

10:00 スペードがオフィスに来るまで、アイヴァの面倒を見る

アイヴァの帰宅後、スペードの葉巻を巻いてやり、お互いの話を語る

ダンディ警部補とブリジットの伝言をスペードに伝える

17:10 『タイム』を読みながらスペードを迎え、ワンダリー(ブリジット)の味方であることを主張する

ジュエル・カイロを迎え、オフィスを出る

3日目(金曜日)

(午前)午前中に3度アイヴァの電話を受け、ブリジットをオフィスで待たせる

ポルハウス主任検事と「G」と名乗る男からの電話を受ける

ブリジットを自分の家に泊められないか、スペードより電話を受ける

(午後)スペードに、ブリジットが自分の家に行かなかったことを告げ、肩をつかまれ激しく問いただされ、「俺が戻るか、連絡するまでここにいてくれ」と命じられる

4日目(土曜日)

06:00少し過ぎ 机で寝ていたところをスペードに起こされる 地方検事局からの連絡をスペードに伝える

(午前)「マルタの鷹」の話がどこまで本当なのか、歴史に詳しい従兄弟に聞きに行く

従兄弟に聞いた話と船火事の話を、スペードに伝える

(午後)映画館館主を依頼主として迎える

スペードの傷口を撫で、埠頭に行くようにお願いする

16:50 雇われ探偵ルークの伝言を受け、30分後にスペードに伝える

ルークと会って戻ってきたスペードが、埠頭で仕入れてきた情報を話すのを聞く

マルタの鷹」を持ったジャコビ船長(後に死ぬ)を迎える

ブリジットの電話を受ける

スペードに、警察に知らせるように命令される

(夜)自宅をスペードが訪ね、警察との応答を彼に伝える

5日目(日曜日)

07:00 スペードに郵便物マルタの鷹)を取ってくるように指令される

07:50 スペーの家に郵便物と共に訪れる

6日目(月曜日)

09:00 事件について書いてある新聞を読みながら、スペードを迎え、アイヴァを迎える

 

★エフィ・ペリンさんの萌えどころ

・真夜中にスペードの電話を受けて、相棒の妻(スペードの愛人)に相棒の死を告げて、その面倒まで朝までさせられるエフィたん

・スペードの巻き煙草を巻いてやるエフィたん

・スペードにきつく肩を抱かれて「いやんもう、これじゃ肩、人に見せられない…」と困ってしまうエフィたん

・机でコートを羽織って朝までスペードを待つエフィたん

・スペードの傷口を撫でながら命令するエフィたん

・日曜日の朝7時に電話で呼びつけられて、荷物を届けると「用はそれだけ?」と帰るエフィたん

 

★白坂微恵さん

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高橋尚子さん

The Maltese Falcon マルタの鷹

 

ハードボイルド? 喜劇?

まさに”メリーゴーラウンド”(第十二章タイトルより)

メリーゴーラウンドの馬のようにごてごてと着飾った人物たち

 

非情・冷静? 嘘つき・見栄っ張り?

最高に嫌な男と女→男のプライド、女の激情

感傷的にならないというより、傲慢で自己中心的

”鷹”が本物だったら結末は?

 

不条理

フリクラフトの挿話→神のいたずら、人間の力の及ばなさ

登場人物たちもみな不条理な結末へ

 

エフィ・ペリンとウィルマー

エフィ・ペリンの善悪観念

スペードからの奇妙とさえ思える信頼

エフィ・ペリンの最後のことばの意味=スペードとブリジットは似た者同士

ウィルマーの存在感と役割

 

 

★可児さん

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★ちはやさん

エフィ・ペリンの正体

 

マルタの鷹」はファム・ファタールであるブリジット(以下B)の正体とマルタの鷹という宝物の行方という二つの謎をめぐって展開する。しかし、そのいずれもが偽物だという、なんともやりきれない結末が用意されている。さらに主人公サム・スペード(以下S)の正体(身を挺してお姫様を助けるアメリカン・ヒーローなのか、ハードで冷血なダーク・ヒーローなのか)も曖昧なまま物語が展開するが、読み進めるうちに、S自身はそのどちらでもなく、その定義のあいまいないわゆるハード・ボイルド・ヒーローを演じようともがいているだけの役者であることに気付く。

 彼らの化けの皮がはがれるラストを迎えても、無傷なままでいる登場人物がいる。Sの秘書エフィ(以下E)である。Eは終始Sに忠実で、有能な仕事ぶりを発揮し、Sを励まし、慰め、警告する。怪しげなキャラクターたちが入れ替わり立ち替わり登場する本書において、一見もっとも明快なキャラクターと思われるが、実際には、Eの真意は謎のままである。Eの登場シーンだけを以下に抜粋する。

 

第1章:

p.13 「スウィートハート」と呼びかけられて登場。容姿の描写。Bを取り次ぐ。

p.15 Eのタイプライターの音が聞こえる。盗み聞きなどせず、ちゃんと仕事をする真面目な秘書。

第2章:

p.33 SがEに電話。「いい子だ(angel)」と呼ばれる。アイヴァへの伝言を頼まれる。

p.44 ダンディがアーチャーの家に電話するとEが出たという。

第3章:

p.46 オフィスでSにアイヴァの来訪を告げる。親密なやりとり。

p.49 アイヴァについてSと会話。アイヴァを性悪女(louse)と侮蔑。Sとアイヴァの関係にあからさまな嫌悪を表明。Sの煙草を巻いてあげる。

p.56 事務連絡。Bのメモを燃やすSを「とがめるような目つきで見守る」。

第4章:

p.73 スペードの机で「タイム」を読んでいる。SにBをどう思うか女の直感を聞かれ、熱心にB支持を説く。「困っているあのひとをみすてたり、弱みにつけこんでしぼりとったりしたら、絶対に許さないわよ。あなたをくずだと、一生思いつづけてやるわ」。カイロを取り次ぐ。

p.78 帰りの挨拶。

第10章:

p.161 約百ページぶりに再頂上。溜まっていた事務連絡。

p.164 トムに電話をかけるよう再度指示される。

p.165 Bについての印象を再確認され、家に泊めるよう依頼されて快諾。

第12章:

p.191 Bが行方をくらましたことが明らかになる。動揺したSはEをなじり、肩を掴んで痣を作ってしまう。Sは反省し和解。

第14章:

p.217 言いつけを守り早朝までオフィスで待ち続けたE。「君はまさに、燃えさかる甲板に踏みとどまる水夫」という色気のない喩えでまとめられる。Sの頭の傷を心配。Bの行方を心配。マルタの鷹について従兄弟の大学教授の意見を聴くよう頼まれる。Sは「笑われても泣きわめくんじゃないぞ」とからかうのを忘れない。

p.229 従兄弟の意見を報告。帰途に船火事に遭遇したことが判明し大きく展開。

第15章:

p.248 新規の依頼人を取り次ぎ。Sの心配。親密なシーンだが、Bを心配する台詞で風向きが変わる。口論はヒートアップ。「あなただって、それほど正直じゃないし、あのひとにフェアじゃなかったし、そんなあなたを丸々信じられなかったからといって責められはしないわ」Sは根負けしBの調査に出かける。

p.253 オフィスに帰ったSにEはじゃれつく。事務連絡。Bの心配。

p.254 「ザ・ラ・パロマ号」というEの言葉尻を捉える。状況説明。ジャコビ乱入、死亡。Eは通常の人間としての反応を示す。彫像を手に入れて有頂天なSが死体を足げにしているのにショックを受ける。Bからの電話を受け泣きじゃくる。「早く助けに行ってあげて、サム」死体というやっかいな問題を引き受けてSを送り出す。「いい坊やだね、きみ(シスター)は」

第17章:

p.271 Sがオフィスに電話をかけるが、誰も出ない。

p.276 SがEの自宅に電話。SがEの自宅を訪問。本署で搾られてクタクタなはずなのに、健気に振る舞うE。忠実に任務を遂行していた。

第19章:

p.328 午前七時にSがEの自宅に電話。包みを引き取り、持ってくるように指示。「男の子のような陽気で明るい顔」をして登場。あっさり退場。

第20章:

p.355 Sの机で新聞を読んでいたE。「冴えない顔色をしているが、陽気で引き締まった顔つきで、いくぶん血走っているが、目も澄んでいる」という矛盾した形容。あからさまではないがどこか違和感のある、これまで見せたことのない態度。Sのからかいにも乗らない。「あなたは正しいは。でも、いまはあたしに触らないで、いまは」「白い襟のように蒼白」になるSの顔。アイヴァの来訪を「抑揚のない小さな声」で伝える。

 

 まず明らかなのはEは一貫して自らの欲に基づいた行動をしていないこと。アイヴァを毛嫌いするのも嫉妬からではなく、彼女の本質を見抜き、Sに相応しくないと考えているから。それでは徹底したB支持は何故か。Bの本質を見抜いていなかったのは明らかであるが、第20章での態度を考えると、Bの本質はEにとっては問題ではなかったことが分かる。Sにはお姫様を助けるアメリカン・ヒーローでいてほしかっただけなのか。これは未熟な女の子の甘い夢とも考えられるが、それはそのままSの良心と重なる。S自身の良心と葛藤すべき場面で常にEが都合よく登場し、彼の両親を代弁しているようにも思える。「『マルタの鷹』講義」のp,148ではB、カイロ、ガットマンを「成熟・腐敗したヨーロッパ人」、Sをそれに対峙する「アメリカ人」として、黒い鳥=イノセンスを巡る物語と論じられているが、そこではEについて言及されていない。イノセントであることを期待、要求し、それが叶えられなくと楽園から追放する、つまりこれまでの甘美な様式に沿った関係性を集結させるEとは、S(=アメリカ)のイノセンスを信じ、庇護する神だったといえないだろうか。もしくは、「いい子」という意味でつかっていた呼びかけ「angel」は文字通りの意味で真実を表していたのでは。そう考えるとSが蒼白になるほどのショックを受けるのも納得できる。

 

 

★深森花苑さん

 

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★やまださん

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★加藤千枝さん

 

マルタの鷹』読書会レジュメ

~金髪の悪魔と三人の女たち~

 

「見てくれのいい金髪の悪魔」という表現が面白い。ただ途中のストーリー展開にあまり引き込まれず、後半部の謎解きのシーンも一読しただけでは今いち納得しずらく、真相も若干、肩すかしな感じがした。しかし、女好きの「金髪の悪魔」とそれを取り囲む三人の女、という視点で読むと、この小説のわけのわからなさも手伝って、確かに面白い。

 

◆◇アイヴァ

  • こういう女っているよね、という感じで新鮮さはないが、スペードの目線からみるアイヴァは悲しくて、滑稽で面白い。アイヴァを描くことで、アイヴァから逃れてブリジットへ、エフィへ走って行こうとするスペードの姿が逆説的に浮かび上がってくる気がする。

 

◆◇ブリジット・オショーネシー

  • スペードと話すときの態度が、一貫しておどおどしているのが気になった。私の中のファム・ファタールのイメージと違うこともあるが、こういった卑屈な態度を取り続ける(たとえそれが演技であっても)女を温かい目で見るのは難しい。演技をするなら堂々としていて欲しい。共感するのが難しく、一番のヒロインをこういう女性にした作者を心から信頼できなくなる。
  • スペードは、いつからブリジットにいかれていたのだろうか(いかれてたとするならば。私の眼にはあまりそうは見えなかったが)。最初にあったときから? そうすると、陳腐な一目惚れ。美貌の女に「わたしの体で、あなたを買うことができるのですか」と懇願された時? 確かにその時、スペードの中で何らかの感情の爆発がおこったことは伺えるけれど…。
  • 二人の関係は結局、ブリジットは目的のものを手にするため、スペードはアイヴァから逃げ、自分の欲望を満たすため、お互いを利用しあいながらも、それを愛だと濃淡の差こそあれ、思い込もうとしたのではないだろうか(ブリジット側にはそれは薄いように思うが…)。→作者がこのシチュエーションを、現実社会に対する皮肉として描いていると考えると(かなりの飛躍で、私の勝手な妄想だが)、とても面白いと思う。
  • 最後の二人の「愛している」「愛していない」のやり取りが白々しい。

◆◇エフィ・ペリン

  • 母親役だとの指摘にはかなり納得。ただ、アイヴァのことを嫌って、ブリジットに肩入れしているとしても、最後に「触らないで」とスペードを拒絶までするところが、少し唐突な感じがした。肩入れぐらいで、しかも結局殺人犯だった女に対して、なぜ? スペードへの屈折した思い?

 

★好きな台詞

「愛してたらどうだというんだ。そんなものの価値は、だれも知りゃしない。一ヶ月後には、もうわからなくなってるかもしれない。(略)きっと死ぬほど後悔するだろう……だが、そんな期待はいずれ過ぎる」というスペードの台詞こそ、熱いものに溺れながらも非情に生きるハードボイルドの男としての生き様が出てて、格好いい!

 

 のめり込むように読んだとまではいかなかった『マルタの鷹』だが、それは本作がハードボイルドの金字塔であり、後世の作家たちがこの小説を越えようとする中で生み落とした数々の名著を私が読んできているからかもしれない、と思う。もちろん、年代や性別のせいもあると思うけれど。

 

 

★ほむきちさん

素のサミュエル・スペード

 

(152)「朝食をとくに用意しに行って来たスペードくんだ」

 

この台詞に限らず、サムの行動には芝居気があり表情をころころ変える。

サムにとって表情もまた商売道具の一つであるかのようだ。

全編通じてサムは気性が激しく思える一方で、全て芝居のようにも見える。

果たして本書においてサムは素を晒しているだろうか。

 

1.スペードの表情変化

(40)間が抜けて見えるほど冷静な顔つきをしている。

(81)スペードが薄い笑みを見せた。やさしげな、夢見るような笑みだった。

(82)煙草を喫っているときのスペードの顔は、ときたま下唇をわずかに意味もなく動かすだけで、間の抜けたように見えるほど、考え深げに静止していた。が、ほどなくカイロがうめき声をあげ、瞼をしばたたかせると、スペードの顔におだやかな表情が戻り、目と口元に親しげな笑みが浮かんだ。

(134)殴られた瞬間、スペードの笑みが失せたが、すぐに夢見るような微笑がもどった。

(182)スペードの顔が青白く引き締まり、低い、怒った声でしゃべりはじめた。

【以下、第18章「貧乏くじ」から】

(282)スペードの鼻孔が荒い息とともにひっこんだり、めくれあがったりしている。

(283)締りのない下唇と垂れさがった上瞼が、顔中のV字模様とあわさって、漁色家の淫猥な薄笑いになった。

(288)赤みがさした額の下で、スペードの目が熱を帯び、真剣になった。

(289)スペードの目は温かみを失っていた。顔から締まりがなくなり、厚切りの肉片のようにだらしなくなった

(290)スペードは背中を伸ばした。愉しげな笑みが顔にさし、締りのなさが消えた。

(290)スペードの額で、二股になった血管がふくれあがった

(292)スペードは口をきつく結んだまま笑みを浮かべた。

(293)スペードはにやっとって、自分を見つめているガットマンに目をやった。

(296)スペードはにっこりった。大きな笑みではなかったが、まぎれもなく愉しんでいる表情だった。

(297)スペードの愉快な笑みがひろがった。

(298)スペードは、二人の顔に順に目をやった。笑みは消えている。顔には表情がまったくない

(299)スペードはレヴァント人に笑みを送り、抑揚のない口調でこたえた。

(300)スペードは荒々しい言葉を無造作に放り出した。芝居じみた誇張や音声になるのよりずっと重みのある口ぶりだった。

(301)スペードも温和な笑みを顔いっぱいに浮かべた。

(302)スペードが、無表情な顔、ぼんやりした目つきで長椅子から立ち、三人に近寄った。

 

2.傍に誰もいない状況でサムの表情が描かれている場面

(90)スペードは顔をしかめながらデスクに向かって坐っていた。

(167)口はきびしく満足げなVを形づくっている。

(185)顔は青白く汗ばんでいるのに、唇はかさかさ乾いている。顔の汗を拭おうとハンカチをとりだした手が小刻みにふるえていた。それを見てスペードはにやりと笑い、「ヒュー」と声を洩らした。※上述(182)の続き

(217)スペードははたと足をとめ、口をきつく結び、廊下の両端に目をやり、ひっそりと俊敏な足どりでドアに近づいた。

 

3.他人の演技についてのサムのコメント

(64)…たいしたもんだ。おみごとだよ。なんといってもその目がいい。”御慈悲です、スペードさん”なんていうときの声のふるわせかたも堂に入ったもんだ…

(96)スペードは横目で女を見て、にやりと笑った。「たいした演技だ。ほんとにたいしたもんだよ」

(111)「やりすぎじゃないのか」

(156)「いまのは、七番街あたりでなら大受けしただろう。だが、ここはロームヴィル(ニューヨーク市)じゃない。おれの町なんだ」

 

4.サムの芝居気(すっとぼけ)に対する親しい人々の反応

(37 トム)…おれがサーズビーのことを訊いたとき、あんたは、お呼びじゃないぜというような口調でつっぱねたろ。おれたちの仲で、あれはなかろうぜ、サム。

(191 シド)シド・ワイズは弱々しげな笑みを浮かべた。「たいした男だよ、あんたってやつは、サミー」

(224 ルーク)…「あんたってやつは、なんとも食えない男だな、サム。…

(251 エフィ)…サム・スペード。あなたって人は、自分がその気になると、世界中のだれよりもいやな人になれるのね。

(301 ガットマン)「まったくたいしたご仁だ」

 

5.素の反応かと判断に迷う場面

(138)顔をいきなり怒りで紅潮させたスペードが、耳ざわりなしわがれ声でしゃべりはじめた。怒り狂った顔を両手で支え、床を睨めつけ、一息つけずに5分間、ダンディを罵りつづけた。

(251)スペードの顔に赤みがさし、頑なな口調で、「あの女は自分の始末はちゃんとつけられるし、必要なときにはここに救いを求めにくればいいことも心得ている。自分に一番都合のいい頃合いにね」

(365)スペードの顔が、白い襟のように蒼白になった。

 

6.芝居を連想させる諸要素

・ジョージ・アーリスのシェイクスピア劇『ヴェニスの商人』(91)

・第8章「茶番劇」(124)

シェイクスピア真夏の夜の夢』の引用「真実の愛にはつきもの」(326)

 

 

 

★ホッタタカシさん

マルタの鷹について』

 

①「宝探し」の冒険譚

私立探偵サム・スペードは、ある女から”妹の交際相手”サーズビーの尾行を依頼される。が、担当した相棒は翌日死体で発見。サーズビーも殺されたため、スペードは相棒の未亡人と警察から、それぞれの殺人の犯人と疑われてしまう。依頼人・ブリジットの話は嘘であり、彼女はスペードに助けを求めてきた。事務所へ戻れば怪しげな外国人カイロが訪れ、「鳥の彫像」を求めてスペードに銃を突きつける……。

こんな幕開けの『マルタの鷹』初読の感想は「古めかしいわりにスッキリしない」というもの。いわゆる「宝探し」の冒険譚であり、登場人物の配置も「英雄=スペード」、「影=ブリジット」、「賢者=ガットマン」、「悪戯者=カイロ」、「アニマ=エフィ」といった”元型”に還元可能です。しかし今回の再読で、神話学者ジョセフ・キャンベルが規定する英雄の行動、即ち「旅立ち」→「通過儀礼」→「帰還」の図式からはみ出た要素が、サム・スペードの魅力ではないかと思い直しました。彼は最後に「収穫物」を持ち帰るわけでも、共同体に「変革」をもたらすわけでもありません。日常に帰還し、ある物を「喪失」する英雄なのです。

 

②「金銭欲」に躍る人々の喜劇

サム・スペードに降りかかる”アクション”は登場人物たちの純粋な金銭欲に基づいています。スペードに提示される金額は、最初の手付けが200ドル、ブリジットの全財産が500ドル、カイロの言い値が5000ドル、ガットマンの言い値は50000ドル、もしかしたら10万ドル以上と急速にインフレ化してゆきますが、クライマックスではガットマンの提示額が10000ドルへと下落、さらに1000ドル札一枚の行方をめぐってスペードがブリジットを”丸裸”にしてみせる展開となります(最終的にスペードが得られたのはその一枚のみ)、世界恐慌(1929年)の時代に描かれた作品らしいなまなましさを感じさせます。

 

③「欲望」から距離を置いてきた主人公の”喪失”

金銭欲の渦巻く関係性を駆け抜けるスペードですが、彼自身は常に一歩引いており、「鷹」が偽物とわかった後でもさほど大きな動揺はしません。しかしその直後、ブリジットを警察に引き渡すことを告げる場面で、本音と戦う苦しい心情を吐露します。

 

「愛してたらどうだというんだ。そんなものの価値は誰も知りゃしない。もしおれが、その価値を知っていたからって、どうなんだ。一ヶ月後には、もうわからなくなってるかもしれない(略)」

 

この大恐慌時代、金銭だけでなく愛情の価値も不安定になったことを示す台詞ですが、ここで思い出すのが「フリットクラフトの失踪」(p.105~110)のエピソードです。鉄骨が落ちてきたことをきっかけに、人生をリセットした男。しかしまた鉄骨が落ちてこない日が続くと、また以前のような日常に埋没してしまう……。スペードにとっても鉛の鷹は「天から落ちてきた鉄梁」でした。フリットクラフトのように、人生をリセットすることもできたはずなのに、また元に戻ってしまうことを知っているスペードは、あえて気持ちを押し殺す。Vの男らしい”Victory”を掴むことに成功します。

しかし、戻って来た秘書エフィは、ブリジットを警察に突き出したことを知り、スペードを拒絶します。エフィは彼女が犯人と知ってなお、スペードの行為が許せない。

 

「わかってるの……あなたがやったことは正しいって。でも、いまは私にさわらないで。今は」

 

そう言われて、白い襟のように蒼白になるスペード。そして訪ねて来るアイヴァ。いつもの日常が戻った。勝利者となったはずなのに、彼は己の心を頑なに律したがために、自らのアニマから切り捨てられることとなった。いわゆる自己犠牲とか義侠心とはまったく異なるストイシズム、行動主体で書かれて来た小説の、最後1ページでスペードの心情をぐっと引き立てる技術に唸らされます(この結末は映画版とは異なる)。